2005年 07月 15日
民芸の心について |
(写真・魅力的な志野染付け・藤井敬之氏)
人々はどのようなものに心を突き動かされるのだろう。美しいものとは、どのようなものをいうのだろうか。
「工芸では用から生まれた美しさのみが、美しさの正しい性質を受ける」
「なぜ簡素で単純なものが美しいか、それは働きに即した姿だからと答えてよい」
日常の道具に美を見い出した柳宋悦は、用に忠実に作られた簡素なものこそ美しい(用即美)と言っている。また、彼が求めた素朴、健康な美は作為無く、無心に作られてこそ生まれる(無作為の美)というのも彼の美学の核心をなしている。
李朝家具、アフリカの布、日本各地の民窯の器等々、世界の民芸(民衆の工芸)を1万点以上も収蔵する日本民藝館では、彼の審美眼に裏打ちされたコレクションが堪能できる。
特筆すべきは,王侯・貴族が愛でた雅やかな工芸品にではなく、民衆が作り、生活に用いた道具に、彼の眼が向けられていたことだろう。雑器、下手ものといわれるもののなかに宿る美、「用の美」に光を当て、民衆の暮らしから生まれる手仕事の文化を守り、育てることを主張したのです。
彼が大きな影響力を持ったのは、彼が単に工芸のコレクターにとどまらず、美の伝道師であり、工芸運動のオルガナイザーとして活躍したからでした。
さて、脱民芸を出発点に器屋を始めた私も,「和」の精神に通底する「素」の美に共感する一人です。民芸が目指した美とも共通するはずです。ところが、なぜ民芸と距離を置くようになったのでしょうか。
濱田庄司風であったりするような、模倣され、パターン化されたお土産品としての民芸品の横行。「素朴」ではなく、「稚拙」な民芸作家の氾濫。そして、なによりも用即美、無作為の美という柳美学に理屈の上でも疑問を感じるのです。
ものの美しさは、単に用から生まれるのではなく,作り手の美意識、言わば作為から生じるのではないでしょうか。過剰な作為、無用な加飾が美を遠ざけるとしても、用をみたしたものが即美しいとも思えません。用から生まれる形が有り、シンプル・イズ・ベストというデザイン精神が大事という意味で「用の美」という概念を肯定したとしても、作り手の創意を否定することにつながる「無作為の美」の考えは、否定せざるを得ません。
現に、日本民藝館に収蔵されている古窯の焼き締めの美しいカメも、素朴な形であれ、土着の土の特性を生かし、美しい焼き物にしようとする職人の創意と努力があってこそ、後世に伝承されたのではないでしょうか。古伊万里の文様は、自然と暮らしに学び、創意あるデザインに昇華する職人の才能があってうまれていると思うのです。
折りしも、日本民芸夏期学校が札幌を会場に開かれています。簡素なものの美しさを教えてくれた柳宋悦の足跡を偲びつつ、用を超えた美の在りようについても思いをめぐらして見ました。
(2005.7.15)
by seigendo
| 2005-07-15 13:52
| 器つれづれ